モーツァルトのクラリネット五重奏とバセットクラリネット

モーツァルトは基本的に「歌心の作曲家」であった。また、彼はその「歌=旋律」を実際に誰がどのように歌うかということを念頭に置いて曲作りした、というのもよく言われるところである。
作品を実際に奏でる歌手や奏者の、それも具体的に彼らの得手・不得手までに配慮し、美点を最大限に発揮させ、時にぎこちなさを少々からかうようなことまでしながら楽譜で会話をする…それがモーツァルトの音楽、というわけだ。
管楽器の分野では、ホルンのロイトゲープ、オーボエのラム等とのそうした交流も有名だが、なんといってもクラリネットでのアントン・シュタッドラーにまつわる話が大いに興味深い。

アントン・シュタッドラーは弟のヨハン・シュタッドラーとともにウィーンの楽壇で活躍したクラリネット奏者である。 ヴィルトゥオーゾとして名高く、その音色と技量の素晴らしさは同時代人から大いに賞賛された。にもかかわらず、楽団で弟ヨハンと一緒に演奏する際に編成によっては第2クラリネットをわざわざ選んだりするような低音域への偏愛があり、ウィーンの宮廷楽器製作者テオドール・ロッツとのコラボによりバセットクラリネット(通常のクラリネットよりも三度下まで出せる)とバセットホルン(同じく五度下まで出せる)という低音用クラリネットまで作らせている。 バセットホルンは特殊楽器として長らく定着しているが、バセットクラリネットはシュタッドラー、ロッツの死後、一旦忘れ去られた存在となった。
しかし、このバセットクラリネットこそが、モーツァルトが彼の傑作クラリネット五重奏曲K.581とクラリネット協奏曲K.622を書いた際に想定していた楽器なのだ。それも、低音を好んだシュタッドラーの吹くバセットクラリネットこそが。

この2曲、19世紀以降に広く流布している楽譜は通常のクラリネットで吹けるものになっているのだが、実はいずれにも作者の完全な自筆譜が現存しない。

モーツァルトの死後、妻コンスタンツェは出版者宛の書簡の中で「クラリネット作品についてはシュタッドラー兄に聞いてください。いくつかの原譜と写譜を彼は持っていたはずなのですが、彼によるとドイツ旅行中にトランクを盗まれた際に一緒に無くしたことになっています。でも私は、そのトランクは借金の形(かた)として取り上げられた、と他の人から聞いています。」と書き残している。
この逸話が直接的にクラリネット五重奏曲・協奏曲の自筆譜と結びついている確証はないものの、両曲ともシュタッドラーが自筆譜を一旦所有していたことはほぼ間違いなく、いずれにしても紛失の責任は、なにかとだらしなかったシュタッドラーにあるようだ。

こうした経緯もあり、この2曲の演奏に関しては「バセットクラリネットが出せる低音域を使ったものが本来あるべきクラリネットパート譜の姿なのでははないか?」との疑問が常に投げられてきた。

それでも実際の演奏では通常クラリネット版ばかりが長らく使われてきたこの2曲の演奏習慣に、大きな変化が生じたきっかけは、クラリネット協奏曲第1楽章の展開部に相当する部分がバセットホルン(前述のようにバセットクラリネットよりもさらに音域が低い)を独奏としたト長調バージョンの自筆楽譜断片として近年発見されたことによる。 断片には、この楽器の低音域を生かしたソロ旋律が書かれている他、最終部分にイ長調バージョンに変じたと思しき追記が存在する。
これらをもって、クラリネット協奏曲の成立については「モーツァルトはバセットホルン用にト長調で一旦書きかけた後、バセットクラリネット用にイ長調として完成させた。その後一般のクラリネット用ソロ譜が誰かによって作られ、そちらだけが生き残った。」という見方が出てくるとともに、多くの奏者・研究家がバセットクラリネットの音域を生かしたさまざまな復元ソロを模索するようになった。
協奏曲での発見を受け、同じシュタッドラー用の作品でイ長調という調性も共有するクラリネット五重奏曲についても、バセットクラリネットのパート譜を復元する動きが出てきた。五重奏曲の場合、19世紀のピアノによる編曲譜に書かれた旋律にバセットクラリネットの音域が出てくる事実も、この動きを後押しした。

この結果、現在ではこの2大名曲を演奏するために多くのクラリネット奏者がバセットクラリネットを欲し、楽器メーカーも復元楽器を製造し始めるに至っている。五重奏曲・協奏曲のバセットクラリネット復元演奏も、これまで耳に馴染んだ通常クラリネット版とは異なる魅力を持つものとして、それなりの市民権を得た。
また、楽器としてのバセットクラリネットの復権は、コシファントゥッテなど他のバセットクラリネットを前提としたパートを持つ作品を原曲通りに楽器使用する演奏団体の増加ももたらすことになった。

シュタドラーには、「バセット・クラリネットは自分の発明」と製作者テオドール・ロッツをさしおいて吹聴したといった話もあり、必ずしも100%クリーンではないイメージがつきまとう。モーツァルトの晩年の困窮を救うために金を出して曲を書かせたというエピソードも、それまでの借金未返済分の代わりにモーツァルトに新曲作曲や編曲を強要していただけとの見方もある。
それでも、モーツァルトが彼の音色を愛し、奏者として敬意を払っていたことは間違い無い。
モーツァルトよりもかなり年上だったホルンのロイトゲープ、オーボエのラムと違い、シュタッドラーはモーツァルトの同年代。金にルーズな点も2人はよく似ている。同じ音楽仲間の関係とは言っても、シュタッドラーとモーツァルトの間柄は恐らくより率直で乱暴なものだっただろう。

さて、バセットクラリネットでの演奏こそが「本物」なのか、それともそうした原典主義にあまりこだわるのは意味の無いことなのか。なんとも悩ましい2曲だ。

スコット・ジョプリン ラグタイム

【編成】弦楽四重奏 SheetMusicPlusで楽譜
【収録曲】ジ・エンターテナー、ニュー・ラグ、ラグタイム・ダンス、フィグ・リーフ・ラグ
【編曲者】Christa Sokoll
【出版社】Otto Heinrich Noetzel

ウィーンのポルカやスーザなどのマーチを黒人流儀に崩したものから発展したとも言われるラグタイムは、その出自の通りジャズと欧州のクラシックの中間的な音楽であり、結果として弦楽器との相性もすこぶる良い。
とりわけ、映画「スティング」をきっかけとして「ジ・エンターティナー」などが見事にリバイバルしたラグタイム王のスコット・ジョプリンの一連の作品は、弦楽器奏者にとってたいへん身近な存在だ。

さて、いくつもあるラグタイムの楽譜の弾き比べは、なかなか楽しい経験である。これらの楽曲たちは、単純に見えて、あるいはそれゆえにか、意外なほど様々なアレンジパターンが存在する。

ここで取り上げたものはドイツ(!)のNoetzel版のもの。
ドイツというだけで違和感があるし、その上に出版社はクラシック主体で、Christa Sokollという編曲者も他の出版譜で見る限りポピュラー物のアレンジを主体に活躍している人ではなさそうだし、なにやら相当にラグタイムからは遠そうだ。

で、弾くとどうなるかと言うと、これがやはりドイツ系なのだ。
各パートは丁寧に書き込まれており、やや音響的には暑苦しいのだが、よく響く。
すべての段の左上にしっかり小節番号が入っていたり、律儀に音量記号や発想記号が設定されていたりと、楽譜の作りもドイツ的。こんな曲にクレッシェンドやデクレッシェンドなどで細かく表情付けをするに至っては、あきれて苦笑するしかない。

しかし、いろいろと弾き比べてみると、管理人としてはやや気軽にすぎる米国系アレンジ譜などよりもこちらのほうが好みだったりするのだから世の中わからない。

この1冊の曲集に並んでいる4曲の調性や順番も計算されているようだ。というのも、そのまま全曲を自然に続けて演奏できるようにもなっているからである。繰り返しまで含めると、なんと15分近くも連続してラグタイムを弾き続けることができるようになっている仕掛けだ。
こういうところの懲り方もドイツ的と言えなくも無い。

ドイツの譜面でラグタイム。まあ、日本人がクラシック曲を弾いたりクラシック譜を出版したりするよりは、よほど距離感としては近いのかもしれないが。


(→SheetMusicPlus

プーランク:オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲ト短調

プーランク作曲  オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲ト短調FP93
ベルリオーズを彷彿とさせる壮麗な曲。ティンパニが加わるという珍しさで語られることもある作品だが、あくまでオルガン協奏曲。直前の友人の死に影響を受けたとも、バッハのオルガン作品の研究の結果が出ているとも言われ、宗教的な響きも聞かせる。
 作曲時期: 1938年
 編成: [弦楽合奏/ティンパニ/オルガン]
 演奏時間: 約20分
アマゾンでCD

検索ページリニューアル

一部放置されていたリンク切れ修正や主要弦楽作曲家年表の追加に合わせ、ホームページと検索ページのリニューアルを行いました。
コンテンツの性格上、日常情報の日々更新を追求していくようなサイトではありませんが、少しづつの手入れは怠らぬようにしていきたいと思います。


弦楽館管理人敬白

ブロッホ作曲 合奏協奏曲第1番

ブロッホ作曲  合奏協奏曲第1番
米国に渡って最初にまともな定職を得たクリーブランド音楽学校時代の最後期作品。学生の演奏を前提に、古典的な形式でどこまで新鮮な楽曲を書けるかということに挑戦したもので、「前奏曲」、「悲歌」、「パストラーレと田舎風の踊り」、エネルギッシュな「フーガ」の4楽章からなる。忙しい楽章ではピアノに弦各声部の補強ともいえる役割が与えられているため、少人数や技量の不ぞろいな弦楽器編成でもそれなりに聞かせられる。
 作曲時期: 1925年
 編成: [弦楽合奏/Pf]
 演奏時間: 約25分
アマゾンでCD

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